第１回 チー坊のヘアバンド
やわらかな朝の陽ざしが、三コーナー奥にそびえる山々を薄紅色に染めている。
内馬場に植わった椰子の葉の緑も、埒の白さも、駆け抜ける馬体の艶も、刻一刻と鮮やかさをましていく。
「寒くないっすか？」
馬上のチー坊が微笑み、「これを」と、黒いヘアバンドを放ってよこした。
「首に巻いておくと、暖かいですよ」
ふわりと外埒を越え、テーブルの上に落ちた。それを手にして、はっとした。
チー坊のヘアバンドは、しっとりと汗に湿っていた。何頭もの調教をこなす彼と、コーヒーを飲みながら眺めている私との体温の差を感じた。
彼は、手綱を放してこちらに顔を向け、首をさわる仕草をした。私は頷き、ヘアバンドを首に巻いた。ひんやりとしていた。
スタンド前に置かれたテーブルでは、コートを着込んだ男女が朝食をとっている。
チー坊こと千田輝彦騎手は、毎年暮れから年明けにかけて、ここ、アメリカのサンタアニタ競馬場に遠征にきている。
日本での評判は、福島や中京などの裏開催でしか活躍できない『ローカルジョッキー』である。その彼が、世界一の激戦区であるここで勝ち星を挙げた。遠征を始めてから五年目、一九九九年一月のことだった。
──今年は日本で一勝もしなくていいくらい嬉しい。
酔って言ったあの夜から一年経った。
厩舎からスタンドへの道すがら、そのレースの話になると、彼はなにかを思い出したようにコースを指さした。
日本の王者、武豊を背にした栗毛馬がちょうど直線に入るところだった。豊の美しい騎乗フォームに、見物客が口笛を吹いた。
「実はね」とチー坊が目を伏せた。
「頭のなかが真っ白になって、直線でなにがあったか、ほとんど覚えてないんですよ。豊さんにも言ってないんですけどね」
今年、騎手として一三年目を迎えた。それだけの経験を持つ者が、我を忘れた数十秒。歓喜と興奮をともなったかすかな記憶は、彼のなかに大切にしまわれていた──。
チー坊のはにかんだ笑顔を見ていると、なにか温かいものが胸に入り込んでくるのを感じた。
首に巻いたヘアバンドが、ようやく私の体温になじんできた。
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