第11回 エージェント
さっきからこの男は「ワオ」とばかり言っている。
中央競馬の未勝利戦の一着賞金が五〇〇万円であることを知ったときも、ジャパンカップが行われるこの日の東京競馬場に一〇万人を超える客が集まったのを知ったときも、ニック・コサトは目を丸くしてワオと言った。
ジャパンカップの発走を告げるファンファーレに合わせて、スタンドを埋めつくした大観衆の手拍子が響き、やがてそれが嬌声まじりの怒号となって足元をゆらした。
「これでも、他のＧⅠレースに比べると客が少ないんだ。静かなもんだよ」
私が言うと、ニックはちょっと怒ったように眉を吊りあげ、今度は唇の動きだけでワオとつぶやいた。
ニックは、この夏アメリカに騎乗ベースを移した武豊騎手の騎乗馬集めを担当するジョッキー・エージェントである。
これが初来日。もう三四歳なのだが、海外旅行自体も生まれて初めてだという。
翌週、栗東トレーニングセンターを見学し、さらに京都観光を堪能したニックは、週末、阪神競馬場にいた。ジャパンカップのときのような英語版は用意されなかったのだが、さも読めるかのように日本のレーシング・プログラムを眺めている。馬券を買うためのマークシートの書き方を完全にマスターしていたのも、可笑しかった。
この日の阪神競馬場では、ＷＳＪＳ（ワールドスーパージョッキーズシリーズ）という、世界の一流騎手が全四戦の着順によってポイントを競うイベントが行われていた。その最終戦で、人気薄の馬に乗った武豊が鮮やかな差し切り勝ちをおさめた。
「ここにいる騎手のなかでも、オリビエ・ペリエとユタカの技量は飛び抜けている」
ニックの口調から、観光客の気楽さが失せている。相棒の商品価値を確認したエージェントの言葉には、機械的な響きがあった。
ＷＳＪＳの総合優勝をはたしたフランスのペリエは、毎年冬になると三か月の短期ライセンスを取得して日本で騎乗している。
「ユタカもペリエのようにしたらいい。日米間を何度も行き来するより、春から秋はアメリカ、冬は日本から出ない……という契約はどうだろう。彼に提案してみるよ」
言いながらネクタイを直し、目に挑むような光を浮かべた。そして、相棒の待つウィナーズ・サークルへ、ゆっくりと歩を進めた。
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