最終回 ゴーグル
レースを終えて小走りでパドックを横切る足を止め、武豊騎手は私の名を呼んだ。そして、ヘルメットからゴーグルをはずし、こちらに放った。一〇メートルほど離れていただろうか、彼が投げた透明なゴーグルは綺麗な放物線を描き、胸の前に出した私の手にすぽっとおさまった。「記念に」という声が聞こえたときにはもう彼は背を向けていた。
一九九〇年夏、シカゴのアーリントン国際競馬場でのことである。
それから一〇年経った二〇〇〇年一二月三一日、カリフォルニアのサンタアニタ競馬場でのレース後、ジョッキールームに戻った豊は「今世紀最後の記念に」と微笑み、土のついたゴーグルをくれた。こちらは、サングラスのような濃い色の入ったものだ。
それを手にした瞬間、一〇年前にゴーグルを受け取ったときの感触が掌に蘇り、興奮の入り交じった奇妙な懐かしさを覚えた。
着替えはじめた彼の身体は、夢のなかに飛び込んだばかりの頃よりさらに引き締まり、しなやかな鋼のように見える。ロッカーには革のネームプレートが貼られ、「Ｙ・ＴＡＫＥ」の文字が刻まれている。彼が、カリフォルニアの騎手になった証である。
だが、日米間をたびたび行き来することが当地の関係者に快く思われず、ここでの騎乗数は期待されたほど伸びなかった。
そんな彼のもとに、二〇〇一年の年明け、大きなチャンスが舞い込んできた。フランスのジョン・ハモンド調教師が、ハモンド厩舎の主戦騎手として豊に渡仏するよう要請してきたのである。百頭以上の管理馬を抱えるハモンドは、過去一〇年で二頭の凱旋門賞馬を育て上げた名伯楽である。
豊は、その申し出を受けることにした。
「カリフォルニアでやり残したことも多いんですが、行ってみようと思います」
三月半ばから一〇月半ばまでの七か月間、彼はフランスの騎手として鞭をふるう――。
今、私の手元に、彼にもらったふたつのゴーグルがある。色のついたゴーグルの上に透明なそれを重ね、窓の外に目をやると、景色が少し霞んで見えた。
豊は、こうして重ねたゴーグルの先に、新たな夢を見る。風を受け、視界に飛び込んでくるのは、他馬の姿の映らない凱旋門賞のゴールかもしれない。そう考えると、手にしたゴーグルが歓声につつまれて熱を持ち、細かく震えたような気がした。
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