第３回 スタンド前の忘れ物
前をふさいでいた馬群の壁に、ちいさな裂け目ができた。
府中の坂を駆けあがる若駒は、苦しみのあまり左右によれる。ために馬群の亀裂は不安定で、いつ閉じるともわからない状態だ。
武豊は、そこに騎乗馬スペシャルウィークの鼻先を入れた。
次の瞬間、スペシャルウィークは、びゅっと風切り音がするような鋭さで突き抜けた。
一九九八年六月七日。
豊は、六五代目のダービージョッキーとなった。
一〇度目のダービー参戦にして、初めて手にした栄冠である。
子どもの頃からの夢だった。ダービーを勝ちたいからと、騎手への道を志した。
その夢が、ついに叶った。
スペシャルウィークの背に乗った彼が、地下の検量室前に戻ってきた。
他馬の関係者も、マスコミ関係者も、競馬会の職員までもが拍手で出迎えた。
ダービーならではの光景である。「１」と刻印された枠場に入った瞬間、豊の周囲だけ陽が射したかのように明るく、華やいで見えた。
『競馬の祭典』に訪れる関係者はみな着飾っている。そんななか、古ぼけたダンガリーシャツを着た私は場違いだった。その三年前、ケンタッキーダービーに騎乗した豊とサンディエゴに立ち寄ったおりに購入したものだ。以前、これで彼とペアルックになってしまい、ひどく恥ずかしい思いをしたことがある。
表彰式を終えた豊に右手を差し出すと、
「あ、いいシャツ着てますね」
彼は、悪戯っぽい笑みを浮かべて私の手を握った。
目が「覚えてますよ」と言っている。
積年の夢が叶った直後だというのに、このウィット。それがいかにも彼らしい。
実はこのとき、彼は、コース上に忘れ物をしていた。鞭である。直線半ば、くるりと回そうとしたときに落としてしまったのだ。
「勝利を確信したとたん、手の感覚が普通じゃなくなった」のだという。
あの豊が、震えがくるほど興奮した……。
それほどまでに特別な瞬間を持てる彼が羨ましくなった。と同時に、どんな形であれ、その時間を共有できたことの満足感がこみあげてきた。
まもなく、彼は活動の拠点をアメリカ西海岸に移す。
世界一の激戦区でしか味わえない、震えがくるほどの興奮を求めて──。
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