第７回 ただのユタカ・タケ
南欧のリゾートホテルのように瀟洒なグランドスタンドが、パドック脇のベンチに濃い影を落としている。陽射しを逃れてベンチに腰をおろすと、冷たい海風が心地よい。この風が一帯を避暑地とし、ここデルマー競馬場を夏競馬の舞台にしている。
「よう焼けてますね」
武豊騎手が、久しぶりに会った私を見て言い、パドックへと歩いていった。
その言葉をそっくり返したい気分だった。南カリフォルニアに騎乗ベースを移してから三か月。もともと小さな顔は、日焼けしてさらに引き締まって見える。
レースを終えた彼が、ジョッキールームの前に戻ってきた。
ヘルメットを外すと、髪の毛が金色だった。
「結構、似合ってるでしょ」
ちょっと恥ずかしそうに笑った。
一度ジョッキールームに入り、勝負服を脱いで出てきた豊は、馬道の脇にあるコンクリートの台座を指さした。大人の胸くらいの高さのそこに、ひとりの騎手が座って日向ぼっこをしている。
豊は彼の横にひょいと飛び乗り、空を見あげるようにして目を細めた。
「昨日から急に暑くなったんですよ」
ここは関係者以外の者も自由に行き来できる場所だ。日本で彼がこんなところにいたら大騒ぎになるだろう。
隣の騎手に「次はいつ日本で乗るんだ？」などと聞かれ、流暢な英語で応えている。
「日本のチャンピオンとか言われない、南カリフォルニアの一騎手になりたい」
そう話していた彼は、自身の望む「ただのユタカ・タケ」に、確実になりつつある。
翌日の昼前――。
競馬場近くのガソリンスタンドで私が給油していると、グレーの帽子にタンクトップ姿の男が通りを走っていた。
豊だった。
彼は、私に気づくと走るのをやめた。
「いや、たまに散歩してるんですわ」
ランニングと言わないところがいかにも彼らしくて、可笑しかった。
――僕には努力という言葉は似合わない。
二〇代前半の、アイドル扱いされていた頃の言葉が懐かしく思い出された。
彼は、少しばつの悪そうな顔して、また走りはじめた。
陽射しがまた強くなった。
豊の後ろ姿は見る見る小さくなり、デルマーの美しい街並みにとけていった。
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