第９回 ジョッキーズ・ハイ
まばたきをするとさらに眉がつりあがり、目の光が鋭さを増していく――。
九九年一〇月三日。世界最高峰のレースと言われる凱旋門賞の舞台で、蛯名正義はエルコンドルパサーの鞍上にいた。
蛯名は、ゴーグルをおろすことも忘れて一点を見つめている。視線の先のスターティングゲートからいかに騎乗馬を誘導し、先頭でゴールを駆け抜けるかをイメージしていたのだろう。
蛯名正義・エルコンドルパサーは、ゴール前でフランスのモンジューと壮絶な叩き合いを繰り広げ、半馬身差の二着となった。
「馬場入りのときの俺、すごい顔してるね」
ビデオを観ながら蛯名が言った。
「でも、俺はリラックスしたまま力を出せるタイプじゃない。これが俺なんですよ」
エルコンドルパサーで勝った九八年のジャパンカップのレース後、彼は「ハンパじゃねえ」とうわ言のように繰り返しながら私と二度握手したのだが、覚えてないという。日本タイ記録となる一日六勝を挙げた日も、どこか普通の状態ではなかった。
騎乗馬の走りが彼の精神を昂らせ、それを感じ取った馬がさらに力を出す。
蛯名正義だけの“ジョッキーズ・ハイ”である。
「勝ちに等しい銀メダル」と讃えられた凱旋門賞の翌月末、東京競馬場でエルコンドルパサーの引退式が行われた。まだ五歳秋。「早すぎる」との声もあったが、海外遠征による消耗を考慮し、陣営は引退を決断した。
第五レース終了後の昼休み、蛯名・エルコンドルパサーはスタンド前を疾走し、最後のお披露目をした。
「コースを走るうちに、エルコンドルが少しずつ本気になってきていた……」
そう話す蛯名の目が、いくらかジョッキーズ・ハイに入ったかのように据わっている。エルコンドルの背の感触が、騎手の本能の奥底に眠っていたものを呼び起こしたのか。
この日のメインはジャパンカップ。前年、蛯名・エルコンドルが勝ったレースだ。
――エルコンドル、今日のジャパンカップに出ても勝っちゃうんじゃないの？
いつもならこうした「たら、れば」の質問を歓迎しない彼が真顔で応えた。
「うん。勝つかもしれないね」
意外な返答に驚く私につられるように、蛯名も眠りから覚めたような表情になった。そして、「いや、かもだよ、かも」と照れたように言い、人懐っこい笑顔を見せた。
|
|
